TOP 2003.10 VOL.80
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六本木男声合唱団、海を渡る 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 特集
  六男道中ノド栗毛  
写真 永川智子 ◎フリーカメラマン photo by Tomoko NAGAKAWA
  今回のヨーロッパ・ツアーは団員にその家族、事務局員に
ツアーのスタッフ、それに取材陣と、総勢百七十人を超える人たちが参加した。
その道中を、合唱団の眞木準、竹山聖の二人がリレー形式の旅日記として綴った。
感動のステージを繰り広げた男たちの
苦労と喜び、そして、今だから笑って話せるハプニングまで、
ツアーで何が起こっていたのか。
 
 
眞木準 眞木準プロフィール
まき・じゅん
コピーライター。慶應義塾大学経済学部卒業後、博報堂入社。83年にフリーランスとして独立。眞木準企画室を主宰。主な作品に「でっかいどお。 北海道」(ANA)、「トースト娘ができあがる」(同)、「恋を何年、休んでますか」(伊勢丹)、「ホンダ買うボーイ」(ホンダ)、「六本人、生まれる」(森ビル)、など。TCC賞、ADC賞、朝日広告賞など受賞歴多数。1948年、愛知県生まれ。
 
竹山聖 竹山聖プロフィール
たけやま・せい
建築家、京都大学助教授。京都大学を卒業後、東京大学大学院博士課程修了。大学院時代から活発な設計・批評活動を展開。79年、設計組織アモルフを創設した。近作に「山本寛斎本社ビル」(東京、1998)、「SM House」(神奈川、2000)、「Refraction House」(愛知、2000)、「べにや無可有」(神奈川、2000)、「北野高校同窓会館」(大阪、2003)などがある。1954年、大阪生まれ。
 
   9月12日(金)曇気ホーテ 成田からウィーンへ  
 

 闇の中で目覚める。覚めてから、夢が始まった。おそらくほとんどの団員が、同じ感覚でこの朝を迎えたことだろう。平均週三回の練習。東京・二の橋のつづきスタジオの壁には、我々のある時は絶叫の、ある時は涙の歌声が、落書きのようにシミこんでいるはずだ。小林先生や増田マエストロは、振りすぎた腕が腱鞘炎になっているのではないだろうか。
 七月の合宿もあった。ミセス盛田のおかげである。リハーサルを兼ねたステージも、東京文化会館、東京オペラシティなどでこなしている。なんといっても三枝団長が、まるでオペラの新曲を書くような情熱で、孤軍奮闘プロデュースをしてきた。まさにそのおかげで直前に体調をくずし、出発には間にあわぬという不運な予兆もある。これから始まるのは天国であろうか、はたまた地獄であろうか。
 参加メンバー全員が社会的に責任ある忙殺の立場にあるが、何くわぬ顔で、スケジュールを調整した。荷物をチェックする。着替えが約十日間ぶん詰まったスーツケースの他、制服一式と着物ケース。ボロボロの譜面集と仕事の書類束。早朝の成田エクスプレスで向かう。半眼半睡のまなこがチェックイン・カウンターに見たのは、総勢百七十名のうち成田発のVIP行列だった。
 肩書きだけでウェイト・オーバーになるのは確実である。脚の故障にめげず参加を果たしたケント・ギルバートさんは、気力のスマイル。機内でも、隣席の美しき旅人やFAから、ステージ是非観たいと、高島さんへ幸先のよいお声かけ。はたして三枝成彰のあの超むずかしく超美しいレクイエムを、歌いきることができるのであろうか。と思う頃、歌うサムライたち、もう夢の中であった。(準)

 
   9月13日(土)霧雨 ウィーン  
ライトアップされたウィーンの
楽友協会

 早くに目覚め、シャワーを浴びてから散歩。音楽院のある通りをケルスナー通りまで出て懐かしいマルクト広場と宿を確認、ロースのアメリカンバーの前の路地を通って、ケルスナーに戻り、ハースハウスからグラベン通りを歩く。シュリン宝石店が違う名前の宝石店になっていた。
 1990年に二週間ほどこの街にいたことがあったのだ。そのとき建築家のヴォルフ・プリックスに会った。古いビルの一角にある広い事務所で一時間ほど話したっけ。弱い形が強い形に勝つんだねといったら、君はたった一時間でコープヒンメルブラウのデザインの秘密を見抜いてしまった、とヴォルフが笑った。食事と言えば、夜な夜なウィンナシュニッツェル。それしか料理の名前を知らなかったからだ。ヴォルフが京都に来た時にそのことを話したら大笑いされた。
 十一時から楽友協会(ムジークフェライン)で練習。素晴らしい響きに感動。ホールに設置された女神像のオッパイに秘密があると踏んだ。全体の響きは柔らかく、シャンパンのように広がり、自分の声もよく聞き取れる。お昼は、出た! 砂を噛むよに味気ない、ウィンナシュニッツェルをパンに挟んだだけのサンドイッチ二個。ソースもタレも何もなし。これを与えられた分そのまま二個とも食ってしまったのは、かつて培われたオーストリア料理に対する諦めの境地からか。多くの団員は一個だけ食ってあとは残していたみたい。
 食ってまた練習。みんなまだ旅の初めだし、何よりムジークフェラインのステージに立てた感動からか、気合が入っている。休憩時間に和服へとすばやく着替える練習も含め、夜までみっちり練習の後、ホテルに戻る。眞木さん、浅葉さん、葛西さん、僕の四人で中華料理を食べに行くことに。ホテルの近くで今朝の散歩で目星を付けておいたところ。ところが、外した。
 日本の演歌のイージーリスニングみたいなのが流れているところで、何度もなんども「星影のワルツ」が繰り返されるのには参った。何で中華料理屋に千昌夫? 香港でホテル王になったことがあるからか。日本人客が多いんでしょう、などと結論の出ない議論。ホテルのロビーでまた飲みなおし。翌日の本番が十一時開演なので夜更かしせず、深酒せず就寝。(聖)

 
   9月14日(日)ウィーンの日本晴れ ウィーン  
ウィーン公演の夜の打ち合げ。
ホイリゲ(ウィーンの大衆居酒屋)で

  ホテルから徒歩十分。男たちが衣裳と譜面を手に、楽友協会を、三々五々めざす。朝八時。時差ボケを老人ボケで逆に相殺したように、皆晴ればれとした顔をしている。そもそもこの暴挙、愚挙といわれたプランは、三枝団長の閃きから生まれた。六本木のバーで何人かが集まって飲んでいた一年前、小澤征爾さんが振ったウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの華麗さが話題になり、ほんの思いつきで、ウィーンに電話をかけた。
 答えは「九月十四日なら、ホールが空いてるらしい。普通なら三年間はスケジュールが一杯なのに、これは我々を呼んでいるちょっと奇跡のような冗談かもしれない。カレンダーでは、勤め人も四日有休をとれば行ける。政治家も国会がない時期だし。行ってみない?」。周りにいた酔っぱらいたちが、ウン、といってしまったのが、運命の悪戯というものであろう。
 それがこの朝、本当になってしまった。大ホールの舞台上で、六男恒例の直前リハから始まる。羽田名誉団長を中心に、団員が鳥の翼のように、四声を列形する。誰もいない客席を前に、世界一華麗、世界一名響といわれる舞台で、緊張は開戦直前の兵士のように高まる。恥の上塗りか、はたまたメイク・ミラクルか。音楽の女神に全員祈る想いでいよいよ本番開始午前十一時。な、な、なんと眼前には信じられぬほどの聴衆が、居ならぶではないか。これぞ”お客様は神様です”。
 「レクイエム」を歌いあげる第一部。「からたちの花」「冬の夜」「希望海」「黒田節」「八木節」「ソーラン節」等を和服でつとめる第二部。六男パワーは、あら不思議、実力を超えに超え二百%の力を出し(もちろんパートのどっかは常にオリジナル編曲不協和音程のご愛敬)、ソーラン節では、ブラボーもかかるほど万雷の拍手。そのハーモニーを事務局・西山さんのケータイ電話で一部聴いた三枝団長は「よく聞こえないけど、世界一美しい響きの雑音だね」と漏らしたそうだ。
 世界の建築家、竹山聖ちゃんによれば、シューボックスといわれる箱型ホールの左右に列柱として並ぶ女神彫刻の豊かな乳房フォルムが、音響反射としてのミスト・シャワーのような絶妙の響きを生む、と分析している。夜打上げのホイリゲでは、本番よりもうまい「いざ起て」大合唱が鳴り響いた。(準)

 
   9月15日(月)快晴 ウィーンからグラーツへ  
ウィーンで宿泊したインターコンチネンタルホテルから出発。メンバーも荷物の積み込みを手伝う

 わたせさんやケントさんらと別れを惜しみつつ、朝まあまあ普通の時間に出発。バスでグラーツへ。途中休憩したパーキングエリアの空気がおいしかった。グラーツに到着して昼食。とにかく出が遅い。不味いのは諦めるとして、どうしてさっさと出てこないの。
 そこから歩いて練習場へ。ミノリテンという修道院。途中にクンストハウス(文化首都を記念して建てた新しい文化センター)発見。ブルーの異物が宙に浮く。ショッキングかつ感激。練習後、ムール川に浮かんだ野外劇場のカフェで森さん(バス)と旨いドリンク。森さんはバナナジュース、僕はシャンパンにヨーグルトとレモンが入ったような。ドイツ語堪能な森さん、ブロンド美人ウェイトレスとツーショット。
 さっと旧市街を駆け回ってみる。なかなかいい町。ホテルに集合時間の六時半に戻る。市長の歓迎レセプションだ。案内のエステルが引率して、市庁舎へ。ぐるぐる階段を上って上階の議会室へたどりつく。そこで若い市長と助役かな、それからネクタイなしのEU文化首都のプロデューサーが出て来て歓迎の挨拶。おいおいみんなネクタイ着用と言われてきたんだぜ。でも、ぼくだけは着用じゃなかったんだけど。羽田さんがみごとな答礼をして、隣のレセプション会場へ。
 市長はとても若い。若いですね、おいくつなんですか、と訊ねると、四十歳だと。こちらが驚くと、ニコッと笑って、僕は何でも早いんですよ、結婚したのは十八の時だから、と。英国人建築家ピーター・クック設計のクンストハウスの建設現場を翌日午前中に見せてもらう約束をした。文化首都プロジェクトで建設費が四千万ユーロ。すごいね。終わって旧市街の迷路のような街路を辿って、開いている飲み屋に行き、夜中まで話す。だんだん寒くなってきた。(聖)

 
   9月16日(火)晴レルヤ グラーツ  
公演のプログラム。日本語とドイツ語で書かれている。

  星ふる夜のミノリテン・ザール。「青い天使」とレクイエムの詞にあるエンジェルが、当夜のステージに、明らかに舞い降りた。釜洞祐子さんのソプラノが、天井画に谺するとそれは天使の声に変身し、聴衆と我々をオーロラのベールのように包みこむ。小林一男さんのテナー・ソロは、有名なハイCを頂点にヘヴンへの階段を形づくる。
 トップ・テナーにパート替えしたばかりの浅葉克己さんも、着物のため名物の帽子も赤い靴も身につけてはいないが、まわりの団員と同様、一種の陶酔トランス状態で、もはや譜面から眼をあげ、天空に語りかけるようにレクイエムを空んじている。
 日本の曲では、またもブラボー。八木節のお囃子隊、今田知宏さん、麹谷宏さん、佐藤元嗣さん、大中誠さん、横江和樹さんがスターになった。客席四百は、目一杯埋まり、立見の方もいる。百三十年続く地元合唱団との共演であまりのうまさに最初たじろぐが、ウィーンの余勢と小林、増田両巨匠のニッコリ・マジックで、甲子園球児が試合を重ねるごとに上達するようにパフォーマンス。もともとサクセスとは、成功体験の積み重ねにすぎない。
 客席とステージ両方に安堵をもたらす露木茂さんのいやし系バリトンMCと羽田名誉団長の名スピーチに熱い絶賛の声まき起こり、打上げパーティでも、鷲尾悦也演説に辰巳琢郎タイガース優勝ハッピ姿が、大ウケ。
 知らぬうちに、夜も更け、就寝は午前二時。三時半のモーニング・コールまで束の間、ハッピーに酔いしれる。なにやら、森本恭正さん招待のハプスブルク家の当主ご夫人が感動してくださり、ローマ法王に話し、バチカン放送で三枝団長の「レクイエム」を放送、とのありがたき感涙の噂も出る。
 ただし、ツアー責任者でバリトンの上月光さんの顔に徹夜の連続のため出ている極度の疲労色が象徴するように(声は掠れつつあるが、まだデカい)、マエストロも予言していた、ボロボロ体力の心配が出始めた。中田さん、吉川さん、白水さん、佐藤さん、亀井事務局長ら、日本を代表する名医のドクター・チームに、ホザンナ、ホザンナ、すがるしかない。(準)

 
   9月17日(水)晴れ グラーツからベルリンへ  
竹山氏に届いた娘さんからの応援ファックス

 前夜ホテルに戻るとツアコン二村女史から「ラブレター」といってファクスを渡される。仕事のファクスの中に一枚、娘からの応援ファクス。イラストが上出来なので、楽屋になっている小ホールに持っていってみんなに回した。グラーツの公演はずっと和服。草履に慣れず疲れた。和服で町を歩くのはもっと疲れた。精神的に。でも、公演が終わったらそのまま和服で町へ繰り出す。
 中庭で開かれたパーティもそこそこに、麹谷さんとやすみさん、野山君とフィアンセの美佳さん、僕で抜け出して、街一番という触れこみのワインレストランへ。残念ながらレストランは営業終了。バーで飲む。白ワイン一本と赤ワイン一本。麹谷さんの見立てだけあって美味。ホテルに帰るともう二時近く。三時半起きに備えて徹夜体制の人たちもいる。スイートの辰巳部屋に行き、徹夜組に加わる。
 今朝は本当に暗いうちにホテルをバスで出発。ずたずたの状態でウィーンに向かい、そこから空路ベルリン入り。ツアー山場の強行軍スケジュールだ。
 もう本当にクタクタで、市内観光組から離れてホテルへ直行。三枝さんと感動の再会。午後、コンツェルトハウスでオケあわせ。ベルリンでは和服が先でそれから制服の予定。つまり、日本歌曲が先。レクイエムで勝負をかけるプログラムだ。
 皆、疲労がピークに。晩飯はどうしたっけ、と記憶が飛んでいるほど疲労困憊。ああそうだ思い出した。日本大使館で晩餐会を開いてくれたんだった。忘れちゃバチがあたるよね。旨い飯、今回の旅行で一番。それも道理で、吉兆で修行した料理人さんらしい。高島大使ありがとう。夕食休憩挟んで、また深夜まで練習。まあホントにみんなクタクタだったけど、明日は最後の本番。(聖)

 
   9月18日(木)晴れ ベルリン  
ベルリン公演のチケット

  同室サウナフリーク松井英光氏のすすめで午前中サウナに。ゆっくり休息。気力充実。午後、皆とバスで会場へ。夕方までみっちり練習して、和服に着替えるためホテルに戻るも、急きょ決定全員記念撮影のため、食事の時間なし。あたふたと着替えバスですぐ取って返してコンツェルトハウス前のいかめしい大階段で全員例の黒和装束で整列。異様な集団と広場の外国人も目を丸くしていた。
 レクイエムで一発音程を外し、作曲家の紹介が飛んだ他は、まあまあの出来ではないでしょうか。いやよくやったというべきか。眞木準日記につづく。(聖)

 
   9月18日(木)晴れ アッ晴レのベルリン  
ツアー最後の夜にベルリン郊外のレストランで行なわれた帰国パーティー

 夢みるうちに、六男の疲れもピークに達していた。「声」よりも「腰」が問題のようだ。名誉帰還したケントさんらに替わり、いよいよ三枝団長も参戦を果たした。アニマル藤原も、男の約束通り出現した。コンツェルトハウス楽屋で皆が歓声と拍手。三枝団長と小林・増田先生の賭決断で、午前のリハは中止。初めてのオーケストラとの共演の、恐ろしきミジメから六男は立ち直れるのか。肉体は全員ボロボロ。それでも倒れる者は、まだいない。
 最後の力を振り絞るように、サポーター・ミセス十字軍と事務局の助けを借りて、袴の紐を締め直し、いざ起て戦人よ。モニターにたまたま映ったわずかな空席に戦慄しながら本番に立つと杞憂。公演直後、NHKでもニュースで流れた客席を埋めた聴衆の感動と拍手の嵐を呼ぶこととなるプログラムを乗り切った。
 団長発案の開演前記念撮影の全員スマイルがプレッシャーを緩め、はね除けたのかもしれない。三公演目で、もはや風格さえ感じられる小野敏夫さんと亀井眞樹さんのソロ。ウィーンと逆プログラムで日本の歌から始まったのも功を奏したようだ。
 休憩中にオケ席を作るのは、五十歳未満の団員動員仕事。団の若手といっても会社じゃおエラい社長や上級職。部下たちに見せてやりたい甲斐甲斐しさである。締め括りの「レクイエム」。
 小山さん、高橋さん、松尾さん、兒玉さん、がんばる。大鐘さん、酒井さんは楽屋で冗談をかろうじて飛ばしていた。井上さん、金山さん、成宮さん、波岡さん、今井さん、赤井さん、秋元さん、伊藤さん、神津さん、羽田さん、齊藤さん、伊中さん、五十嵐さん、森さん、松本さん、杉山さん、みんなキモチの若さで疲れを隠している。日記に書ききれない全員が、参加できなかった団員のためにも獅子奮迅でがんばった。
 考えてみれば、小野旅行委員長、上月さんとそのクルー、それにわれらが事務局の美女軍団といった縁の下の力持ちが、団員のどこかに埋蔵されていた情熱に、火を着けたのかもしれない。
 ウィーン、ベルリンの両大使館にも本当にお世話になった。松山さんや服部さんにもありがとう。森本さんは勲章ものだ。それにしても、みなさんよくやったとはいえ、当分、もういいや。いやダメだ、帰ってすぐに、ヴェルディ協会のステージが、あったっけ。(準)

 
   9月19日(金)晴れ ベルリン  
ベルリンで宿泊したグランド・ホテル・エスプラナーデから帰国の途につくバスに乗り込むメンバーたち

  歌い疲れ飲み疲れプラス心地良き達成感で惰眠を貪っているとすでに午後。眞木さんから電話で起こされて、三枝さんが世界一うまいというイタリアレストランへ。コンツェルトハウスの向かいのモダンなインテリア。「ボッカ・ディ・バッコ」だったかな。たしかに旨かった。
 その後、娘のためにサッカーのユニフォームを買ってやろうとラファイエットに入ったけれど、その手の商品は何も見つからず。ブランデンブルク門まで歩いた後、タクシーを拾って二十世紀末名建築ユダヤ博物館へ。僕は二度目だけれど、また堪能した。
 ホテルに戻って、最後の晩餐会の会場へ。皆、とにもかくにも三つの会場で公演をなし終えたというまずまずの満足感に浸りつつ、でも飲み物が別会計といういつものシステムなのでいまいち盛り上がらず。またバスでホテルへ。なんと十一時前には部屋に帰って寝る体勢に入ってしまった。ただ、おかげでテレビでやってた大島渚特集を見ることができたのでしたが。達成感と疲労感が残った夜ではありました。まあ、身体のために早く寝ろ、という天の配剤だったのかもしれません。(聖)

 
   9月20日(土)晴れ ベルリンから成田へ  

 関空に帰れると甘い期待を抱きつつ、結局、成田までみんなと一緒に帰りました。ANAと共同運行のオーストリア航空R5の赤い制服新人スッチーの笑顔がとても素敵だったのが救い。強行軍プラス エコノミー症候群にも負けず、進軍凱旋の六男強者たち。皆さん、ほんとにいろいろお世話になりました。(聖)

 
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