TOP 2003.10 VOL.80
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六本木男声合唱団、海を渡る 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 特集
  六本木男声合唱団の真実  
Pt.1
  日本の各界のオピニオンリーダーが数多く参加し、
団員総数も今や三百人に迫る勢いの六本木男声合唱団。
三枝団長をはじめ、結成当時のメンバーたちも驚くほどの早さで規模が拡大し、
ついには海外公演まで実現してしまった。平均年齢53歳。
連日連夜のお祭り騒ぎ、シニア・パワー恐るべし!
 
 
   「いざ起て、戦人よ」  


 「六本木男声合唱団」の結成は今から四年前、1999年の秋にさかのぼる。現在、団長を務める三枝成彰プロデュースによるエイズ撲滅のためのチャリティーコンサート「ファッション・シンフォニー」に、三枝団長の呼びかけによって集まった文化人、著名人など二十数名が「元美少年合唱団」を結成しステージに立ったのがきっかけだ。ステージ上の出演者たちは、海外のオペラ・カンパニーが日本公演を終えた後に残していったというブルーの兵隊の衣装、それに黒長ブーツ、胸にはエイズ撲滅のバッジといういでたち。一カ月半の練習によって唯一ものにした「いざ起て、戦人よ」を熱唱、満場の拍手を浴びることになる。

 周囲の想像を超えた反響と、聴衆を前にステージで歌うという何ともいえぬ緊張感と興奮、そして、喜び。合唱の魅力にとりつかれたメンバーたちからは、自然と本格的に合唱団を旗揚げしようという声が上がりはじめる。そんな中、アートディレクターの浅葉克巳(テノール)の「六本木男声合唱団!」という一声が決定打となった。全員が集まりやすい場所として、六本木の「クレードル」というピアノのあるバーを月に一度借り切って練習がスタート。唯一のレパートリーの「いざ起て、戦人よ」が団歌に決まった。

 
   ディナーショーを開催  


 超多忙な男たちによる合唱団。運営だけでも大変な作業だが、取りあえずは合唱団を立ち上げた三枝団長の事務所が事務局代わりとなった。そして、練習がいよいよスタート。するとどこから話を聞きつけたのか、12月にディナーショーを開催してくれとのホテルからのオファーが。周囲はにわかに慌ただしくなり、三枝団長とコーラスマスターの小林一男、メンバーたちの特訓の日々がスタートする。残された時間はあと二カ月ほど。十曲近い新曲を二十回を超える特別練習で体に叩き込んでいった。

 そして、いよいよ1999年12月20日、運命の日。決戦の場所は横浜のグランド・インターコンチネンタルホテルだ。衣装は黒のタキシードにスタッフが徹夜で作ったグリーンの蝶ネクタイ、左腕には合唱団のロゴをあしらった赤い腕章とクリスマスらしさを演出したが、多忙なメンバーたちのこと、出演者全員が顔を揃えるのはこの日が初めてという状態だった。しかし、午後一時から八時の本番直前まで特訓を敢行、その甲斐あって大成功を収めた。とにかく本番に強い、という合唱団神話が生まれた瞬間である。

 
   それから一年  
 

 前年の成功を受け、ホテル側もこれはいけると踏んだのか、翌年のミレニアムのクリスマスにもディナーショーをとの依頼が舞い込んできた。しかも、会場は昨年の倍の六百人を収容だという。メンバーの数も徐々に増えていたとはいえ、動員も含めプレッシャーが重くのしかかる。

 一方、合唱団のユニフォームを作ろうという話が盛り上がり、世界的なデザイナーのコシノジュンコ(六男サポーター)にデザインを依頼。その完成した真新しいユニフォームのお披露目を兼ねて、参議院議員の羽田雄一郎(バリトン)の結婚パーティーで久々のステージに立つ。そして、再び決戦の地、横浜グランド・インターコンチネンタルホテルへ。

 前年に引き続き、本番直前までリハーサルを繰り返し、ステージに立つメンバーたち。女優の安藤和津、芳村真理、キャスター・エッセイストの南美希子が司会進行を買って出て、前年より華やかな雰囲気で進行。さらに合唱団のプリマ・ドンナである林真理子を招いての共演、俳優の奥田瑛二(テノール)演出による寸劇もありと、総勢八十人による豪華なディナーショーは盛況の内に幕を閉じた。

 
   アルバム・デビューも達成  


 年が明け、2001年も新年から活動開始。1月中旬に建築家の堀池秀人(テノール)の設計で、三枝団長が音楽監督を務める宮城県白石市の「ホワイトキューブ」で初の自主公演(前泊、温泉、宴会付き)を開催。2月には三枝団長を筆頭とする役員、パートリーダー、広報、庶務などの人事を決定するなど、もう後には引けない状況となった。

 そんな中、2月11日には日本卓球協会からの依頼で、4月に大阪で開催される「第四十六回世界卓球選手権大会」のテーマソングを録音することに。千住明(バリトン)作曲による「ネットを越えろ!」のアップビートに平均年齢の高い合唱団は苦戦するも無事に録音は終了。発売の記者会見の席も用意され、4月18日、ソニーから、遂にアルバム・デビューを果たした。アルバムは銀座・山野楽器の「Weekly Chart」の4月22日付けでシングル・チャート第五位にもランクインした。

 この頃になると、マスコミの注目も集めるようになり、出演依頼も増え、6月にソプラノ歌手のナタリー・ショケットの公演、7月に地球子供基金パーティーに相次いでゲスト出演。恒例のディナーショーもこの年は横浜に加え、浦安のヒルトン東京ベイでも開催された。

 
   えひめ丸鎮魂歌「希望海」を遺族らの前で披露  
 


 2002年の活動は2月16日、宇和島で行われたコンサートで幕を開けた。コンサートは前年の2月10日(日本時間)、ハワイ・オアフ島沖で起きた米原潜との衝突事故で犠牲になった愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸の実習生ら九人の冥福を祈るもの。「えひめ丸 希望海の夕べ」と題されたコンサートには遺族や救助された生徒、学校関係者など約五百五十人が出席、同校OBの玉井恭介と親交のあるコピーライターの眞木準(バス)の共作による歌詞に、三枝団長が作曲した鎮魂歌「希望海」を、メンバー四十七人が遺族らの前に初めて披露した。

 三枝団長は「多くの人々が記憶にとどめることが、亡くなった方への一番の供養。この歌が残っていくことが鎮魂になる」と挨拶。希望海を合唱した後、全員で黙祷(もくとう)を捧げた。「希望海」はその後、4月に録音され、9月にはソニーよりアルバム第二弾として全国発売され話題となった。以降、合唱団のオリジナル・レパートリーとして、欧州ツアーでも全会場で披露された。

 
   いざ、サントリーホールへ  


 年末のサントリーホールでの本格的なコンサート開催に向けて、2002年の8月には新潟県新井市の新井リゾートにて初の夏期強化合宿が行われた。連日、朝九時からパート練習、午後は全体練習というハードスケジュールで、急速な上達を遂げたメンバーたち。また、共同生活により合唱団の団結もより一層深まった。帰京早々の9月には東京の新名所、新丸ビルのオープニング特別イベントに出演、11月には上野の国立博物館で行われたイベントにもゲスト出演と活躍が続く。

 そして12月12日、ついにサントリーホールのステージに。当日は百二十人もの団員が参加。合唱団の桂冠指揮者を務めている大友直人らが指揮台に立ち、シューベルトの「ドイツ・ミサ曲」や三枝団長の作曲した「レクイエム〜曽野綾子のリブレットによる」などアンコールを含めて十三曲を歌い上げた。また、後半には料理評論家の小林カツ代を団長に女優やファッションデザイナー、アナウンサーらで結成される「神楽坂女声合唱団」が特別ゲストとして出演。コンサートに花を添え、滝廉太郎の「花」など三曲を熱唱し、コンサートは盛況の内に幕を閉じた。

 年末恒例のクリスマスディナーショーも奥田瑛二(テノール)の演出による盛りだくさんの内容で、すでに貫禄すら感じさせる堂々としたステージに会場は沸いた。

 
   CM出演、そして欧州へ  
 

  2002年秋には、「NTTファシリティーズ」のCMに出演が決定。CMは11月から放送され「つーよい会社にしよおーじゃなーいーかー」という三枝団長作曲のテーマソングを歌い上げる団員の姿がお茶の間の話題となった。

 年が明けると、合唱団はヨーロッパ公演に向けてまっしぐら。時には週五回というハードな練習スケジュールが組まれ。メンバーたちは多忙を極める仕事の合間を縫うように足繁く練習に通った。7月には、総仕上げとして前年に引き続き新潟県の新井リゾートでの合宿を敢行。最終日には成果を確かめるべく長野県上田市でチャリティーコンサートを開催した。また、8月末には、神楽坂女声合唱団のチャリティーコンサートへのゲスト出演してツアーに具えた。

 そして9月12日、団員とその家族、総勢百八十人は欧州ツアーに向け日本を出発した。

 
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